■あの頃の記憶■




 埃っぽい色褪せた絨毯の上で一人、列車の玩具で遊んでいた。錆びついた車輪がきいきいと音を立てる。小さなキッチンと机とベッドがあるきりの狭い部屋に響いて、曇りガラスの窓にぶつかって消えた。
 電気代がもったいないからと、月の明るい夜は照明器具をつけないように言われている。満月に近い今夜は、カーテンを開け放しておけば確かに明かりはいらない。元々この部屋の窓にカーテンなんて掛かっていないけれど。月明かりに照らされて、電車は鈍い銀色の光を放っていた。  静かな、本当に静かな夜。上流階級の家に住み込みで働く両親は今、主人に言いつけられて隣町まで買い物に行っている。二人とも駆り出されたということは、よほど大きなものか、よほどたくさんのものを頼まれたに違いない。幸いにも、いつも玩具を取り上げようとする富豪の息子はもう寝てしまったようで、どたばたと廊下を走る気配はない。安心して遊んでいられる。
 大豪邸の一室、一階の端っこの部屋で、サリタは列車の玩具と一緒に両親の帰りを待っていた。

 時計の短い針が十を指した。相変わらず家の中は静かなものだ。主人や夫人はきっと中庭に面した大きな窓を開けて夜風に吹かれながら、のんびりとアイスティーでも飲んでいるのだろう。
 あくびを一つ噛み殺す。時計を見上げて首を傾げた。両親の帰りが少し遅い気がした。隣町とはいえ、そこまで遠くにあるわけではない。徒歩だったらさすがにもっと掛かるだろうが、閉店時間が迫っているのだから主人もタクシー代くらい出してくれたはずだ。だとしたら逆に遅すぎる。
 きい。列車が立てる錆びた音が、突然の足音で掻き消された。思わず動きを止めて、ついでに息まで止めて様子を窺う。廊下を走る足音。急いでいるのか、それとも興奮しているのか、もしかしたら怒っているのか、やけに音が荒っぽい。
「出て来い、サリスメイト!」
 ドアの前で急停止したと思ったら、今度は激しいノック音が無遠慮に刻まれた。顔を顰めて立ち上がる。列車をベッドの布団の隙間にそっと押し込んでから、未だノックの鳴り止まないドアに近づく。
 鍵をはずしてノブを捻る。引くには少し高い位置。背伸びしながら苦労していたら不意に向こう側から押されてよろめいた。顔を上げると、悲しいのか、怒っているのか、喜んでいるのか、とにかくいろいろな感情をごちゃ混ぜた表情の主人が仁王立ちしていた。
「お前の両親が事故で死んだ」
「え」
 言葉を理解できなくて思わず聞き返す。
「しんだ?」
「事故だ」
 主人はそう繰り返し、動けずにいるサリタの体をぐいと持ち上げて歩き出した。何の抵抗もできなくて、まるで荷物同然に豪邸の中を運ばれていく。リビングの前を通る時、起きてしまったのだろう息子が目を擦りながらこちらを見上げていた。その隣で夫人が、主人と同じように複雑な顔をして腕を組んでいた。
「使用人の親が死んだ今、その子供のお前をこの家に置いておいてやる道理はない」
 両開きの黒い重い扉を少し開いて、主人が玄関の外へサリタを下ろした。思考回路がパンクしかけていて、まだあまり事態を把握できていない。
「じゃあな。戻ってきても居場所はないからな」
 目の前で扉が閉まった。
 がちり、と鍵の掛かる音がした。
 静寂が訪れた。
 列車、持っていれば良かったな。なんてことを思った。
 もう、取りには戻れないんだ。



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