■あの頃の記憶■




 ゆるゆると目を開いた。見慣れた天井の染みが視界に入る。体を起こすと全身にびっしょりと汗をかいていた。タンクトップを脱ぎ捨てて手近にあったタオルで適当に体を拭きつつ、サリタは小さく息を吐いた。
 兵士詰所の隣に建つ小さな物置小屋がサリタの部屋だ。夏の属性を持つ者として、最初は城の棟内に立派な一部屋が用意されていたのだが、サリタ自身が丁重に断固拒否して物置小屋に変更してもらった。豪華な部屋は好きではない。狭い方が落ち着く。泥に塗れて洗われるのを待つ鎧や、磨かれるのを待つ盾などがごちゃごちゃと置かれていて、その中にベッドと机と小さなクローゼットがあるのはなかなかの違和感があるのだが、ゼシルなんかはこの部屋を気に入っているらしく、暇があるとよく遊びにくる。大概サリタはゼシルにくっついているので問題ないが、たまに勝手に入られてベッドで爆睡されて困惑することもある。
 思い出してふと笑みを浮かべる。あの時はどうしたんだっけ。そのまま朝まで寝られてしまったから、仕方なく外で戸にもたれて眠ったんだっけ。
 新しいタンクトップを頭から被って着てから、鎧を蹴っ飛ばさないように注意しながら戸口へ向かった。満月に近い今夜は、カーテンを開け放しておけば明かりはいらない。元々この部屋の窓にカーテンなんて掛かっていないけれど。

「おや」
 ニスの利いた艶のある木の扉をノックすると、すぐに反応があってフィルが顔を覗かせた。
「こんな時間に珍しいお客さんですね。どうしたんですか、サリタ」
「ちょっと、ごめん。紅茶かなんかもらえるかな」
 瞬秒不思議そうな顔になっただけで、すぐにいつもの笑顔でどうぞと扉を広く開けてくれた。恐縮しながら室内に足を踏み入れる。
 予想通り、夜更かしして作曲活動に勤しんでいたらしく、机の上には数枚の白い楽譜が散らばっていた。開いた窓から入り込んだ夜風に乗ってさらに散乱しようとした楽譜を慌てて掻き集める。フィルが笑いながら、焦らなくても大丈夫ですよと後ろから声を掛けた。
「レモンティーでよろしいですか」
「あ、うん。ありがとう」
 ソファに座ったら何だかやたらと疲労困憊している自分に気がついた。組んだ手の指に額を乗せて深々とため息をついていると、「はい、どうぞ」レモンティーを持ってきてくれたフィルがはてと首を傾げた。
「珍しいお客さんが珍しいことになってますね。本当にどうしたんですか。随分と凹んでいますね」
 ひんやりとしたレモンティーを一口飲んで深く息を吸い込んで吐いて、自分の現状に思わず苦笑した。子供じゃあるまいし。何をそんなに。
「……夢を、みたんだ」ぽつぽつと独り言のように言葉が口から洩れた。
「夢ですか」
 先程サリタがまとめた楽譜を手に、フィルが奥のグランドピアノに向かった。ぽんと一つの音が鳴らされる。彼の手に掛かるとそれすらも心地良い。目を閉じて耳に神経を集中させた。
「小さい頃の、夢。親父とお袋が死んだって、聞いた時の」
 長く伸びた音がふつりと途切れた。
「ああ」
 そう短い返答があったきり、フィルは何も言わずに椅子に座って、ピアノを弾き始めた。幼い子供を宥めるような、子守唄のような旋律の、どこまでも優しく柔らかい音色が部屋に満ちる。
 温かい何かに抱き締められたような気持ちに溢れて、サリタはソファに長身を縮めた。寄せては返すピアノの音に、いつしか再び夢の中へと落ちていく。
 


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