■K■




 細い細い糸屑のような白い月が空に浮かんでいる。夜の雲が月を緩く囲み、光を受けて淡く透けていた。
 狂ったように瞬くネオンの類は月光に慣れた目にはかなり痛い。視界の端っこに嫌でも入るそれらを全て抹消し、彼はまっすぐに夜空を見上げていた。


 今日は金曜日。休日を楽しもうという人間たちの、うきうきした気持ちが街中に溢れているように思う。そんな彼らには、闇に溶け込んだこの姿を捉えることはできないだろう。
「それでいいんだ」
 黒猫はそう呟くと、月明かりに身を躍らせた。自慢の鍵尻尾を水平に伸ばし、大通りの真ん中を堂々と歩いていく。
 誰も気づくことはない。
 気づいたとしても決して見ようとはしない。
 黒猫は自嘲気味に笑った。本当のところ、自分は"猫"という生き物ではなく、"闇"という背景の一部なのではないかと、最近ずっと考えている。
 結論を出すのは……、まだもう少し後にしようと思う。
 女の後ろを、スキップしながらついていく一人の子供と目が合った。子供の目線は低い。しばらく見詰め合った後、子供はつと視線を巡らせた。
 とてとて走っていって(女が立ち止まった)、転がっていた小石をおもむろに拾い上げ、そして、
 こちらに向かって投げつけた。
 いい線だ。小石は黒猫の耳を掠めてアスファルトにぶつかった。乾いた音を立てて転がっていく。子供が再び石を探し始める。
 将来は野球選手か? どうでもいいことを考えながら、再び歩き出す。
「構っちゃ駄目よ」女の声が背中に届いた。


 孤独には、もうとっくの昔に慣れた。
 寂しさなどは通り越して今はただ気が楽なだけ。
 自分以外を思いやることなんて面倒。というか、そんなことをして何になる?
 この命が次の朝を無事に迎えられること。ただそれだけで良い。


 ふらり。角を曲がり、細い路地の途中に座り込んだ。
 先ほどから何者かの不思議な視線を感じていた。敵意はない。それは今までにない感じだった。
 ――不意に目線が高くなった。
 は? 驚いて首を巡らすと、自分の肩の向こうに人間の顔がある。継ぎはぎだらけの茶色いコートと穴の開いた分厚い手袋。小汚い格好でかなりやつれた様子ではあるが、目だけは嬉しそうに笑い輝いている。
 頬に擦れた絵の具の跡が付いている。まだ年若い絵描き。
「こんばんは、素敵なおチビさん。僕らなんだかよく似てないかい」
 ぞっとした。全身の毛が逆立つ。何を言っているんだこいつは。
 牙を剥き爪をたて、絵描きの腕の中で必死にもがき暴れた。絵描きがわあと言って一瞬腕の力を緩める。隙間から体が抜け、重力に従って地面に落ちる。
 足先が着いたか否かの瞬間にはもう全速力で走り出していた。わき目も振らずにただ逃げる。突然飛び出してきた黒猫に驚き立ち止まる人間たちの姿が見えた。見えただけで情報として頭の中には入らない。今すべきことだけに全てを注ぐ。
 孤独という名の逃げ道を走ること。あの人間から一刻も早く離れること。
 別に絵描きを恐れたわけではない。相手は自分に危害を加えるつもりなど毛頭なかっただろう。だから逃げる必要はなかった。むしろ自分が逃げているのは――、
 自分に向けられた生まれて初めての優しさとかぬくもりとか、そういうものだった。
 今まで全く縁がなかったのに、やってくるのがあまりに突然過ぎた。信じられるわけがない。信じたらその瞬間にはもう消えているかもしれない。だって生まれてこの方触れたこともなかったのだから。
 しかし、どこまで黒猫が逃げようとも、絵描きは……変わり者はついて来た。



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