■K■




「こら、動くなよ。描けないだろ」
 ぶうたれる絵描きの抗議を背中で受け流し、雪雲の垂れ込める空を見上げた。今夜は雪になるかもしれない。
 この妙な絵描きと出会ってから、今日で丸一年。一匹と一人で二度目の冬を過ごすことになった。
 ただでさえ絵が売れずに貧しい生活を送っていた彼は、黒猫と出会ってからますます貧しくなった。その理由を黒猫は知っている。黒猫の絵ばかりを描くようになったからだ。こんな真っ黒な猫を描きまくって何が楽しいというのか。しかも売れないのだから全くわけがわからない。食費を削ってでも買う絵描きのスケッチブックはほぼ黒尽くめだった。
 それでも飽きずに彼は黒猫を描き続ける。


 いつの間にか、絵描きは黒猫のことを名で呼ぶようになった。黒猫にとっては生涯初の名前だ。名前というのは生涯でただ一つのものだろうから、初と言うのはおかしいかもしれないが。
 初めて呼ばれたときはくすぐったくてやめてくれと思ったが、呼んでくれる時の絵描きの声と笑顔が好きだったので我慢できた。
「ホーリーナイトってどうだい。黒き幸、聖なる夜って意味さ。ぴったりだろう?」


 この冬一番の寒さになったであろう夜が明けて、路地に転がっていたドラム缶の陰から黒猫が顔を出す。少し触っただけで細切れにされてしまいそうな、きんと冷えた鋭い空気に身をすくめた。
 いつもはもう起きて湯を沸かしている時間だというのに。今日の絵描きは寝坊すけだ。叩き起こしてやろう。いつまで寝ているつもりだって。背中に飛び乗って跳ねてやろう。
 いそいそと絵描きの元へ向かった。絵描きは持っている衣服という衣服を全て着込み、布の塊妖怪と化している。
 狙いを定めたところで、はたと動きを止めた。なんだか様子がおかしい。
「ああ、ホーリーナイト。おはよう」
 弱々しく掠れた声で彼は言った。顔色が悪いどころの騒ぎではない。何と言うか、生気そのものがない。
 死人みたいだ。黒猫はほんの少し目を伏せた。
 様々な単語が頭の中を巡る。虫の息。病気。衰弱。……死。
 こういう時、人間たちはどうしていたっけ。人間たちの中には病気を治す術を持っている者がいる。黒猫にはない不思議な力を持っている。医者とか呼ばれる者たちだ。そいつと暖かい寝床さえあれば助かるかもしれない。
 早く来い。意味もなく絵描きの周りを歩きながら黒猫は思った。
 病気の臭いがわかるんだろう。治す力があるんだろう。早く来い。ここにいるから。
 助けてほしいやつがいるから。俺は何もしてやれないから。だから早く。
「僕はもう……だめみたいだ。すごく眠たい。……ホーリーナイト」
 今にも掻き消えそうな生命の灯火に、黒猫はそっと耳を傾けた。
「はしって――走って、こいつを届けてくれないか。えかきを夢見て家を飛び出した、そんな僕の帰りをまっていてくれる、恋人のもとへ」
 布の塊が微かに揺れて、一番下から一通の手紙を握った手が伸ばされた。
 それは絵描きの最後のラブレターで、それは絵描きの最期の頼みごと。
 何も言わずに手紙を預かる。絵描きは安堵の笑みを浮かべてそのまま目を閉じた。
 そして、
 二度と目覚めることはなかった。


 病を治す力を持つ不思議な者たちは結局来てくれなかった。同じ人間が死んだというのに、誰も来てはくれなかった。


 地面に落ちた白く細い腕は、もう絵筆を持って黒猫を描いてはくれない。鼻先で腕を布の中に押し込んだ。せめて寒くないように。
 永遠の眠りへと旅立った絵描きを見つめ、黒猫は心の中で静かに誓う。
「不吉な黒猫の絵など売れるわけもない。それでもあんたは俺だけを描いた。それであんたは冷たくなったんだ。……手紙は確かに受け取った。必ず届ける」
 何があっても。絶対。


 また雪が降り始めた。この上なく走りにくい雪道が、より一層辛くなる。舌打ちをしつつも口にくわえた手紙――今は亡き親友との約束は離さない。
「見ろよ。悪魔の使者だ! 追い払えっ」
 柔らかなオレンジ色の光が漏れる山小屋の前を通る時、遊んでいた子供たちが石と雪の塊とを投げつけてきた。素早く交わし急いでその場を切り抜ける。
 以前にも同じようなことがあったなあと思って、しかし次の瞬間には首を振っていた。
 今は違う。反論できる。
「何とでも呼ぶがいい。俺には消えない名前があるから」
 黒猫をスケッチブックに描きながらけらけら笑う親友の姿が脳裏に浮かんでは消える。生まれて初めての優しさとぬくもりを、最大限に込めて名を呼んでくれた。
 ふと足を止めてみた。一段と厳しさを増す吹雪を睨みつけ、彼は呟いた。
「あれだけ忌み嫌われた俺にも生きる意味があるとするのなら、この日のために生まれてきたんだろう」
 そして、駆け出す。
「どこまでも走るよ」


 ほぼ丸一日分走り続け、翌日の日暮れになってようやく絵描きの故郷に辿り着いた。
 夏の暑い日、木陰で絵描きがのんびりと昔話をしてくれた時に出てきた街だ。彼が生まれた場所。彼が育った場所。彼が帰るはずだった場所。
 この街に親友の恋人はいる。あと、数キロだ。
 少し進んでは僅かな凸凹に躓く。すでに満身創痍だった。歯を食いしばって立ち上がる間もなく、全身に浴びせられるのは罵声と暴力。
 絵描きの笑顔を思い出す。
 全ての負の感情を振り払って、彼のためだけに走った。
 負けるか。俺はホーリーナイトだ。あんたとの約束を果たすために生まれてきたんだ。
 痛みと疲労で、前足も後足も千切れそうだった。
 頭もなんだかぼんやりとして視界が曇った。
 それでもなお、歩を進める。
 一歩、また一歩。
 亀よりも遅く、しかし確実に。  身体に残る力の限りを使い尽くして、彼は一軒の家の前で倒れた。頭の中で必死に動けと命じるのに、身体の方が言うことを聞かない。
 不意にドアが開く。
 外の様子を窺うようにそっと周囲を見回していた住人は、視線をすとんと落として猫に気がついた。
 中から出てきた若い女が口元を押さえてこちらに駆け寄ってくる。
 これで最後だ。差し出された白い手にくわえていたものを渡したところで、黒猫は意識を手放した。


 くしゃくしゃになった絵描きからの最後の手紙を読み終え、恋人は静かなる祈りをささげた。
 それから、未だ止まない雪に包まれていく黒猫をそっと抱き上げた。嫌われ続けた黒の体躯が、白く白く染まっていく。
 雪の白は純潔の白だ。猫の黒は揺ぎない忠誠の黒だ。誰よりも他者からのぬくもりを求めていた孤独の黒だ。
 絵描きと出会って、どんなに安心したことだろう。彼はそういう人だった。ぬくもりを与えられる人だった。
 猫に頬を寄せる。冷たい。もう動くことはない。
 聖なる夜という名の猫のため、恋人はもう一度祈りをささげて、自宅の庭に埋めてやった。
 アルファベットを一つ、その名に加えて。


 つまりそれは、"Holy Knight"。
 "聖なる騎士"と――。



 
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