■稽古■




 二人分の足音が不意に途絶えた。そして微かな声。何を話しているのかと振り返ってみれば、その脇をウィグナーがすたすたと、心なしか弾んだ足取りで歩いていく。過ぎる瞬間、彼はサリタの耳元に「ちゃんと拭いてからでないと食堂に入れてやらない」とか何とか囁いて行ってしまった。
 ……何だ?
 依然として立ち尽くすゼシルに歩み寄って表情を窺おうとしたところで、ふとその頭や首筋がひどく濡れているのに気がついた。液体は微妙に赤みがかっていて、汗にしては不自然な……。
「――あのやろう」
「は」
 突然ゼシルが口を開いた。俯いたままなので少しくぐもって聞こえる。しかし十分に怨念と殺気が込められているとわかる声で、サリタは思わず一歩退いた。
 やっと状況が理解できた。つまり、ウィグナーがかき氷の器をゼシルの頭上でひっくり返して中身を降り注がせたのだろう。器を取られたのがそんなに怒れたのか。いや、暑さに頭をやられていたのかもしれない。彼は"冬"だから。サリタにとっては天国でも、彼にとっては地獄だ。
 年齢差九歳の喧嘩もどき。それにしてもウィグナー、大人げのない……。
 ウィグナーに対する呪詛を吐き続けるゼシルを宥め宥め城に向かいながら、改めてこの時期のウィグナーを怒らせてはいけないと心に刻み込んだ。ゼシルは季節を問わず怒ると怖いから、彼女も極力機嫌を損ねないようにして、と。
「はあ」
 ほとんど自力で歩いてくれないゼシルを半ば引き摺る形で城内に入った。通りかかった使用人に適当に声を掛けて彼女を拭いてもらい(ゼシルの呪詛は止まらない)、今度は食堂に向けて引き摺る。
 廊下の窓から青い空を見上げ、白い雲と眩しい日差しに目を細めた。ああ、外の気候と今の自分の心境のなんと違うことか。
 とりあえずマイナスな考えを隅に追いやって深呼吸し、前を見据えて足を動かした(ゼシル様、いい加減自分で歩いて下さい)。
 あとで思い切り剣を振って気晴らししよう。うん。相手はゼシル様でも良いけれど、無意識に手加減してしまうしまた稽古やるしで、久しぶりに近衛隊長に一手頼むのもありか……。


 ――城一番の苦労人は誰かという話。



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