■森の番人■ 1 日の光は木の葉の隙間から漏れるだけ。黒く湿った地面にはたくさんの落ち葉が敷き詰められている。小動物の影が枝の上を走り、姿の見えない鳥たちの歌声が四方八方から控えめに聞こえてくる。 さくさくという軽い音を立てながら、シュララは湖へ向かっていた。 森中の水が集まり、また小川として流れ出ていく場所。この森で唯一の水たちの宿屋。 シュララが暮らす森は、外の世界からは「魔の森」だとか「この世の狭間」だとか言われている。つまり、一度足を踏み入れたら二度と出てくることはできないということ。 それは違うとシュララは前から言っている。ただ外の世界がここに入ったことがなくて、 入ったことがないからこの森のことを何も知らないことだけだ。知らないことに対して恐れるのは仕方ないかもしれないけれど、確かめもせずに恐れるのは間違っていると思う。 森の名前はちゃんとあった。 正式名称はとても長いから、ずっと住んでいるシュララでさえ完璧には覚えていない。通称は「シンシン」という。神の森という意味で、大昔の先祖の言葉だそうだ。 ところがここ数百年で状況が変わってきていた。外の世界の者たちが年に数回やってくるようになったのだ。恐怖心が去ったのかと森中で喜んだが、実のところそうではなかった。 森に唯一ある湖の名は"ソルナの湖"。 この湖底には青く輝く美しい石が大量に眠っていた。"ソルナの湖"が、生まれてからずっとずっと蓄えてきた月の光。 外の世界はこの石の存在に気づいてしまったようだった。湖底を掘り起こして水を汚し、森の宝とも言える石を運び去っていく。作られる速度を遥かに上回る勢いで石は減少していった。 もともと多い方ではない。年に数回であろうとも、その数は確実に減っていく。 森と湖を守るため、神様は"罰の罠"を"ソルナの湖"に仕掛けた。外の世界から湖に落ちた者を、別の生き物に変えてしまう罠。姿を変えられた者には湖に対する恐怖心が芽生える。湖に入ることは危険であると脳に直接訴えかける神様の策略だった。 神様だって万能ではないから、他人の考えを無理やり変えることはできない。 少々乱暴だがこのやり方が一番いいだろうということで、シュララも同意した。 基本的には採掘に来た大人たちが犠牲となるのだが、なぜか近年では幼い少年少女が一日に二、三人程のペースで、上空からどぼんどぼんと水に突っ込んでいた。 大の大人の場合は的が大きいので、すぐに水の触手が体を絡めとって湖底に沈めさせてそこにある水流乗せる。水流に押された大人は外の世界につながる川へと流されていく。そして、外の世界を流れる水が川の中に占める割合を高めていくのと同時に、元の姿へと戻っていくのだ。 よって放っておいても勝手に自分の世界に戻れるわけで、シュララは何の手出しもしない。 しかし、幼い子供の場合は違う。的が小さいために触手がうまく体をつかめず、いつまでも湖で漂うはめになってしまう。子供の未来をこの森で奪い取るほど神様は極悪ではなかった。そのためにシュララがいるのだ。 シュララの仕事は、湖に落ちた少年少女を助けること。 森から外の世界へと送り出してやること。 湖の周囲は木々が開けて青空が広がっている。日光がよく当たるから地面は明るい色をして、そこにしっかりとした根を張る瑞々しい草や花が風に揺れていた。 湖をゆっくりと見回す。午前中にも一度来たが水面に生き物はいなかった。 今も何かが浮いている様子はない。 今日はこのまま犠牲者ゼロで済むのかと(大人が沈んで流されてという犠牲はあったかもしれないが、それはシュララが出る幕ではない)息をつく。 "罰の罠"を仕掛けたとはいえ、神様は本心では彼らをいじめたくないと思っているはずだ。聞いたことはないけれど、密かに思っているはずだ。 だからこそシュララに仕事を頼んだのだろう。 また日が落ちたら見に来よう。そう決めた。 森の奥に帰ろうとして、ふと思い直して向き直る。どうせ来たのだから水でも飲んでいこうか。 湖の淵にしゃがみ込んでそっと水に手を入れた。ひんやりとした感触が心地よい。零さないように慎重に掬い上げ、口元に持っていった。 不意に大きな音がした。それと同時に湖面に波が立つ。素足に水がかかる。はっとなって顔をあげた。 手から水が流れ落ちた。 「来たっ」 ぽつりと呟くのと同時に岸を蹴った。背中の小さな羽根をいっぱいまで開く。湖面を撫でる風に乗る。 黒いゴムのような羽根はすぐに日光を吸い込んで、その分だけ大きさを増した。さらに風を捉える。ほんの少しの羽ばたきで速度が上がる。 水柱は湖のほぼ中央で上がった。 "ソルナの湖"はそれほど大きくないとはいえ、それほど小さくもない。その場所にたどり着くのに多少の時間はかかった。 空の色を写した水面に、黄色の何かが浮かんでいた。生き物の背中? 自分で立てた波に揺られ、ぷかぷかと上下している。 動く気配はない。今のところ。 優しく抱き上げてひっくり返す。ぐったりとしていた。口に耳を近づけると、微かにだが息をしている。 ひとまず安心してシュララは岸へと戻った。 上空から落ちてきたにもかかわらず少年少女たちが無傷なのは、きっと自覚のない神様の情けなのだろう。 柔らかな青草の上に降ろしてやる。そのまましばらく待っていたら突然激しく咳き込んだ。 慌ててその小さな背中をさする。ひとしきりげほがほやった後で、彼(もしくは彼女)はシュララを見上げた。咳のし過ぎか、ほんのすこし涙ぐんでいた。 「……あんた誰?」 掠れた声でそう問われ、シュララは正直に答えた。 「私はシュララ。この森の番人」 「ふうん。俺はゼル。ところでいったいこ」 ここはどこだと言いたかったのだろうが、何かが違うことにようやく気がついたようで 中途半端なところで言葉をぶち切った。自分自身の体を見回し、最終的には湖に映して頭の天辺から足の先までをじっくりと観察した後、絶句した。 十分に想像できた展開だったので、特に驚きもせずにシュララはゼルを見つめた。 「なっ、なんだこれ! おい、しゅら――」 やっと衝撃から回復したようでシュララに状況を確認する余裕が出てきたらしい。しかし、シュララの背中から覗く黒い羽根に再び絶句。 そこまで驚くことはないだろうと心の奥で呆れながら、それでもシュララは淡々と説明してやった。 "ソルナの湖"のこと。神様のこと。森のこと。自分のこと。 開いた口が塞がる様子はなく、ゼルはただ話を聞いていた。話し終わってもまだそのままで固まっていた。目の前で手を振ってやると瞳に光が戻った。 「あ、あー。よくわかんないけど、とりあえずシュララが俺を家に帰してくれるらしいことはわかった。よろしく頼むよ」 全身が淡い山吹色の小さな猫は、そう言って礼儀正しく頭を下げた。 森はシュララの庭のようなものだから、外の世界に通じる道へ行くことなど朝飯前だ。ゼルを湖から助けてからそう長い時間を要することなく、シュララたちは森の出口を視界に捉えていた。 「俺あんまり覚えてないんだよね」どうして空から落ちてきたのかとシュララが尋ねると、ゼルは前足で彼女の肩にぶら下がったまま首を傾げた。 「いつも通りに空き地でボール蹴ってたんだ。一人で。そしたら急に眠くなってきたから――普段はそんなこと全然ないんだけど――不思議に思いながら急いで家に帰ろうと思って空き地を出て……そこから記憶がないな。気がついたら全身びしょ濡れで猫になってた」 わけわからんー。夕焼け色の大きな目が半眼になった。その仕草に思わず微笑んでしまいながら前を向いて歩く。 なんとなく理由はわかってきている。 近年、つまり少年少女の"ソルナの湖"への落下が増えた頃に、神様の引き継ぎがあったらしい。その場にいたわけではないから詳しいことはわからないが、新しい神様は賢いけれど大の悪戯好きだという。 ということは、 「ん。シュララぁ。あっちから誰か来るみたいだけど」 ゼルの言葉に思考の谷からひょいと持ち上げられた。顔を上げて見ると、確かに数人の姿が見えた。 血相を変えて地面を蹴り(「うわあ」という悲鳴が肩から聞こえた)手近な木の枝に乗る。木の葉の陰に隠れて様子を窺った。 陽気な笑い声を立てながら逞しい体つきの男たちが三十人ほど、それぞれ鍬やスコップやバケツや袋などを持ってやって来る。シュララたちには気づいていないようだった。 彼らはシュララたちが歩いてきた道をきっちり逆に進んでいく。その先にあるのはつまり"ソルナの湖"。 石の採掘者たちか。 |