■森の番人■




「シュララ……」
 黙り込んでしまったシュララに不安な声が掛けられる。
 彼は話を知っているから、あの者たちがどうなるのかを知っている。できることなら湖に着く前に止めてやって欲しいと言いたいのだろう。
 正直迷った。あの人数で湖に行かれては困る。第二の罠が発動しかねない。シュララとしても止めてやりたかった。人の意思を変えるのは難しいが、それでも努力はしたかった。
 しかし、ゼルを連れて行くのは気が引ける。個人的に第二の罠は幼いゼルに見せたくない。
 このまま森の外に連れ出してから急いで飛ぶか。それとも連れて湖に向かうか。
 時間がなかった。
「ゼル」低い声で言う。「ちょっと帰るの遅くなってもいい?」
「うん」
 緊張しているような感じの返事がくる。ふっと表情を崩して頭を撫でてやった。
「ちゃんとつかまっててね。……飛ぶよ」
 ゼルの爪が痛くない程度に食い込むのを肩に感じてから、ぱっと枝を蹴った。目前に迫る枝はきちんと避けながらまっすぐに上昇する。少し固めの木の葉が顔に当たっては退く。がさがさという騒々しい音が消えた直後、眼下に緑色の絨毯が広がった。
 天井は青い。ところどころに白い雲が浮かぶ。
「わあ――」
 心底から感嘆したようなゼルのため息。笑いかけてやりたいところだが、状況が状況なので無表情のまま湖を目指した。
 何の障害物もない森の上からならばその距離は短い。すぐに空の色よりも少し濃い、"ソルナの湖"が見えてくる。
 湖の上空に辿り着くと下降せずに男たちが来るのを待った。しばらく風に吹かれていると、先頭を歩いていた眼鏡の男が木々の間から出てきた。その後ろを残りの男たちが続く。
 彼らは湖の淵に立って何やら話をした後、早速水の中に入ろうとした。
「待って」
 小さな、しかしよく通る澄んだ声でシュララは言った。
 気がついた男たちが上を見上げる。彼らの視線を一身に受けつつ彼女はゆっくりと下に降りた。微かなどよめきが起こる。
 肩に山吹色の猫を乗せた羽根の生えた少女が降りてくるのだから、まあ彼らにとって動揺する点は山ほどあるなとシュララは思った。
 ゼルが怖がらない程度の速さで高度を下げたシュララは、湖の中に根を張る大木の上に立った。
「絶対に肩から動かないで」ゼルに小声で注意しておく。
 ことによっては振り落とされてしまう危険性がある。
「何か用かい、お嬢ちゃん」
 ショックから立ち直ったらしい男の一人がこちらに尋ねてくる。
 葉を一枚もつけてない丸裸の木を優しく撫でながら答えた。
「森に入るのは個人の自由。ですが、湖に入ることだけは許されません。ましてや目的が目的ならば尚のこと。お引取り願います」
 強い眼差しで見つめた。
 しかしこちらの思いが通じることはなく、「悪いが」男が半分笑いながら言葉を返す。
「俺たちにもやらなきゃならねえことがあってな。そちらさんの言うことは聞けねえや」
 シュララの足元が揺れた。自然と表情が険しくなる。
 その場にしゃがみ込み、なだめるように枝に触れた。
 まだ駄目。もう少し待って。
 はっきりと口を動かしてもう一度だけ問う。
「どうしても、ですか」
「ああ、どうしてもだ」
 即答し、男たちはじゃばじゃばと音を立てて湖に入った。
「あ」怯えた声が肩から聞こえた。
 視界の端に山吹色を捉えて、悔しさに下唇を噛みながら羽根を広げた。
 もう押さえておくことはできない。完全に変わる前に離れなければ。できることならゼルに見せたくなかったけれど……。
 シュララの足が枝から浮いた直後、大木が変化した。
 木肌の色は長い年月を重ねた結果の暗褐色から鮮やかな水色へ。
 雷に打たれて折れた枝の先は銀に光る二本の角へ。
 洞からは鋭い牙と真っ赤な舌が覗く。
 水中に埋もれていた根が太い尾となり湖面を叩いた。
 腹の底に響く重低音を轟かせて、大木は元の姿――ソルナという名の古代竜に戻った。
 威嚇するようにもう一度吼え、爬虫類を思わせる細い瞳孔を持つ瞳で男たちを睨みつける。
 足の先で目覚めた竜を見下ろして、シュララは一段と高く飛んだ。肩につかまるゼルの爪が痛い。
「大丈夫」落ち着いた声で囁く。「大丈夫だから」
 突然現れた竜の姿にさすがの男たちも動けずにいた。全員が一様に恐怖の色を顔に貼り付けている。
 ソルナが口を開いた。牙が日光を反射して輝く。
「う、あ」誰かが搾り出した声に、一人、また一人と男たちが後退を始めた。
 竜が動いた。一瞬で大きな口に三十人の男を含み水に突っ込む。
 巨大な水柱が上がった。
 かなり上空にいたにもかかわらずシュララたちも巻き添えを食らってびしょ濡れになる。
「うわあああっ!」
 ゼルが悲鳴を上げ鼻先をシュララの肩に押し付けた。
 シュララは頭を撫でてやることしかできず、ただ湖面をじっと見続けた。
 波立っていた湖は次第に落ち着きを取り戻し、ふたたび何事のなかったかのように空を映す。
 湖の中から淡い光が飛び立ち、それらは湖の守り神・ソルナの偽りの姿である大木を形作った。
 男たちが来る前の"ソルナの湖"に戻った。


 未だ震えが止まらないでいるゼルに、穏やかな口調で説明をする。
 あまりに多くの人数がこの湖に入ると第二の罠が発動してしまうこと。それが今のソルナで、一気に湖底へ沈め元の世界へ流すことができる。水の触手には限りがある。多くはなく、それ以上の数が湖に入ると過剰になってしまい、罠が正常に働かなくなるのだ。
 それでソルナが動くようになった。
「見せたくなかった」
 最後に付け加える。
「怖がるだろうし。ゼルは故意に湖に入ったわけじゃないし」
「や、いいよ。あの人たちが無事に帰ったんなら問題ないじゃん。……こっちこそごめん」
「は?」謝られるとは予想外だ。
 森の入り口付近に降り立つ。肩から降りたゼルが、神妙な面持ちでまっすぐにこちらの目を見て言う。
「だって俺たち人間のせいでそんな面倒な罠作るはめになったんだろ? だったら謝らなきゃ」
 思わず吹き出してしまった。
 不思議そうにゼルが首を傾げる「どうしたんだ?」
「ううん、なんでもないよ」
 この子なら、
 自然と笑みが浮かんだ。
 この子なら、森に遊びに来てくれるかもしれない。
 空から落ちてくるのではなく、自身の欲ためでなく。純粋な冒険心と好奇心とを持って。
 そんな外の世界の者を、シュララたち森の住人はずっと望んでいた。
 山吹色の猫はその尾をくねらせながら森を出て行った。外の世界の光に触れた瞬間、彼の姿は元に戻る。
 それを確認する前にシュララは地面を蹴った。


 空に近いところに生える木々の葉を掠めながらのんびりと飛んでいく。もう一度湖へ行こうと思った。
 風に乗ってありがとうの声が聞こえた気がして、また笑顔になる。
「どういたしまして」



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