■ダンデライオン■ 2 しばらくして、雨期がきた。 寝床にしていた岩棚を夜明け前に抜け出して、草原に行き、適当に腹を膨らめてから早々に退散する。強い風が全身に吹き付けていた。遠くで雷も鳴っている。すぐにでも雨が降り出して大嵐になりそうな気配だった。 帰りに道の途中で、琥珀色の小石を見つけた。唯一心を許してくれたあいつに良く似た色をしている。それはつまり、自分自身にも似ているということで、何だかくすぐったい気分になりながら、ライオンは小石を優しく銜え上げた。噛み砕かないよう注意して、残りの帰り道を急ぐ。 強風に煽られ、吊り橋はひどく揺れていた。ライオンの体の重みで綱がぎしりと音を立てる。吊り橋の中程まで来た辺りで、大粒の雨が世界を叩き始めた。 怖くはなかった。対岸で待ってくれる者がいるから。銜えた小石の感覚を確かめて、ライオンはさらに足を速める。 頭上で雷が鳴り響いた。どこかで何かが切れる音がした。 どこで、 何が。 気が付くと、ライオンは、谷底にぐったりと伏していた。体中が鈍痛を訴える。銜えていた小石はどこかへ行ってしまった。視界の端っこに、吊り橋の残骸が映る。重たい頭を持ち上げてみると、空は遠く狭くなっていた。雨はまだ降り続いている。風は、ひどく穏やかだ。 谷底が川になっていなくて良かった。流されて、あいつと離れてしまっては悲しい。 目の前で吊り橋ごと谷に飲まれた自分のことを、あいつは心配しているだろうか。心配で心配で、とうとう泣いてしまってはいないだろうか。それはそれで嬉しいけれど、でも、 お前を泣かせるもんか。 雨の音にも負けないくらい、風の音にも負けないくらい、雷の音にも負けないくらい、強く強く、力強く、天に向かって吠える。元気な声を、声だけでも。 聞こえるか。お前の耳に届いているか。ほら、こんなに元気だ。全くもって問題ない。大丈夫。だから泣くな。心配いらない。 濡れた頬の冷たさなど、お前は一生知らなくて良い。 狭い空から降り注ぐ大粒の雨に、全身の傷から血が流れていく。赤い血が岩の地面に吸い込まれていく。流れ続ける血は止まらない。だんだん視界が霞んできた。頭も何だか朦朧とする。吠え続けた声が掠れて、ついには出なくなった。荒い息だけが、自分の周囲で熱を生み出し掻き消える。 「もし、生まれ変わるなら」 聞こえるはずのない声をあいつに聞かせようと。ほとんど動かない口を動かして。呟く。 「お前のような、すがたに、なれれば、あいしてもらえるかな……」 深い眠りに落ちていく。もう元気な声は出ない。命の灯火が今にも消えそうなのが目に見える。不思議と寂しくはない。寂しがり屋の自分がこの世界との別れを寂しがらないのは、自分でも不思議で仕方がない。ただきっと、濡れた頬の冷たさなど、おそらくお前が奪ったんだ。 意識が途切れる曖昧な瞬間、閉じた瞼の端から、一筋の涙が流れた。それは、何に対する涙だったんだろう。悲しくはなかった。寂しくもなかった。それなのに、流れた涙の意味は。 お前にはわかるだろうか。涙の理由を、知っているだろうか。 俺にはわからないが、 単なる想像に過ぎないが、たぶん、 この心の温かさがそのまま答えになりそうだ。 ありがとう。 季節は巡り、やがて再び暖かな日差しが世界を柔らかく照らし出す。この瞬間にも、か弱い産声を上げて世界に生まれた新しい命が、眩しそうに目を細めて、無邪気に空を眺めている。 緑豊かな草原から、相も変わらず濃い茶色の岩山を、深く狭い谷が割いている。 今、谷には、黄色の化粧が施されていた。優しく谷底を撫でる春風に、ふんわりと緩やかな黄の波が立つ。 もし、生まれ変わるなら お前のような、すがたに、なれれば、あいしてもらえるかな…… 一面に咲く、たんぽぽの花。それは、ライオンによく似た姿だった。 完
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