■食堂にて■




 足と尾の先が白くて他は全部真っ黒い小さな猫を抱き締め、スピリアは寂れた裏通りの片隅でぐずぐず泣いていた。雨上がりの日陰はひどく湿っぽく、生温い空気がむき出しの足首に纏わりついてくる。狭い空を見上げると、先程までの豪雨が嘘のように綺麗な青がそこにあった。恨めしげに見つめていたら猫がなあと鳴いて、途端に現実に引き戻されしょんぼりと俯いてしまう。
 小雨がぱらつく中、スピリアはおつかい帰りの途中で捨て猫を拾った。小さくてふにふにしていて、抱き上げたらなあと鳴いた。あまりに可愛くて温かかったのでそのまま家に連れて帰ったら、母は開口一番、
『捨ててきなさい』猫を見るなりそう言った。『そんなもの、拾ってくるんじゃないわ』
 飼うのを反対されたことよりも猫が物扱いされたのが悔しかった。
『ママの馬鹿らずや!』
 卵や葱の入ったビニル袋から手を離して(ぐしゃという良い音がした)踵を返し家を飛び出し、猫を抱いたまま、雨足の強まる街中を走った。闇雲に駆けていたらいつの間にか裏道に入ってしまっていて、体に打ち付ける雨も痛くて息も苦しくて、どこかの店の裏口らしい戸の前に座り込んだ。
 雨が上がってもぼーっとして動けずにいる。
(この子どうしよう)
 ぐずりながらずっと悩み続けていた。捨てて来いと言われて簡単にはいそうですかと従うスピリアではない。まだ小さい猫。一人はきっと死んじゃうくらい寂しいだろう。寂し過ぎて死んじゃうだろう。
「誰か飼ってくれる人を探さなきゃ――」
 不意に背後でドアが開く音がした。振り向く間もなく背中に固い戸がぶつかる。
「ひゃあっ」小さな悲鳴を上げて前につんのめった。お腹の下で猫もぶぎゃあと叫ぶ。
「ごめっ……いったいな!」
 猫に謝るのもそこそこに首を巡らせた。ゴミ袋を片手に提げた少年が、ドアノブを握って戸を開いた格好で周囲を見回していた。ふと視線が落とされてスピリアと目が合う。
「あ、いた」
「いた、じゃない。謝りなさいよ」
「ああ、ごめん」
 小さ過ぎて見えなかったとか何とか、少年は非常に失礼なことを呟きつつスピリアが座る石段を下りて壁沿いにゴミ袋を置いた。手をはたいてからまたこっちに目をやって、
「こんなところで、何?」
 独り言のような口調でそう言って、何気なくスピリアの腕の中を覗き込んだ。スピリアはよいしょと猫を持ち上げて少年に持たせてやってから溜め息をついた。
「その子の飼い主を探してるの。こんなに小さいんだもん。放っておけないよ」
「あんたの家は」
「ママが駄目って言った」頬を膨らめる。
「パパなら良いよって言ってくれるかもだけど、ママが反対だったらやっぱり駄目って言うし。もう、両親揃って分からず屋の馬鹿なんだからっ」
 うがーと吠えると猫も真似してうにゃーと鳴いた。少年は前足の付け根に手を入れて猫を持ち上げたままふうんと呟いた。裏口の戸を見やって首を傾げて空を仰いで、
「じゃあ俺がもらっても良い?」唐突にそんなことを言ったものだから「は?」スピリアは固まるしかなかった。
 石段に猫を下ろしてその喉を撫でてやりながら少年はまた言った。「貰い手いないなら俺もらう。俺、ここの店で働いてんだ。料理店。残飯ならいくらでもあるし、俺が働いてる間寂しがるようなら、街の猫好き同盟の誰かに預かってもらっても良い。……どう?」
 瞬きを繰り返した。こんなにもあっさりと飼い主が見つかってしまって、正直ちょっと拍子抜けだ。
「どう、て……」
 ごろごろと気持ち良さそうに喉を鳴らす猫を見て、
「もちろん、もらってくれて嬉しいよ」
 やっとそれだけ言えた。
 寂しくなった。猫の温もりが僅かに残る手の平を握り締めた。
 微かな笑みを浮かべて少年が頷く。始終無表情だったこいつの笑顔は(本当に微々たるものだったが)なかなか良かった。猫を片手で抱き上げ店内に戻ろうとした少年がふと振り返る。空いている方の手をポケットに突っ込み何かを取り出す。
「これ、店の名刺。住所と地図載ってるから、こいつに会いたくなったらまた来いよ」  へしゃげた白い紙には赤で店名が書かれていた。まだ読めなかったが、いつかは読めるだろう。「ありがとう」大事にポシェットにしまった。
「あ、あとこれもやる」
 右腕から左腕に抱き変えてもう一方のポケットから赤い飴玉を差し出してきた。大きな丸い飴で、包み紙にはイチゴの絵が描かれていた。
「猫、くれた礼。こんなんしかなくて悪いけど」
 少年が大人びた様子で(確かにスピリアよりは年上なのだろうけれど)肩を竦めた。それが何だかおかしくてスピリアは声を出して笑った。変な奴。
「変な奴」
 訝しげな表情で逆に言われてしまってさらに爆笑し、ようやく収まってきてから飴を受け取った。


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