■食堂にて■




 静かになったなと思って顔を出したら、少女はカウンターに突っ伏して寝息を立てていた。歩み寄っていってコップを取り上げても起きる気配はなかった。起こして部屋に戻るよう促した方が良いのだろうか、それともこのまま彼女の部屋まで運んだ方が良いのだろうか。
「…………」まあ後で考えることにする。
 季節は冬と春の変わり目。雨も降っているから、火の気のある厨房に立っていても少し肌寒い。風邪をひかないようにと思って上着をスピリアの肩に引っ掛けてやったら、小さな寝言が聞こえた。少し驚いて手を止めつつも耳を澄ましてみると、イチゴの飴も良いけどここはやっぱりオレンジでしょとか何とか言っているようだった。
「オレンジはもう食べ切ってて、あいにくイチゴしかなかったんだ」
 言い訳がましく口の中で呟いて再び調理場に戻る。包丁を手にしてやりかけていた作業を再開した。この青色人参を切り終えて冷蔵庫に入れたら仕込みは完了だ。さっさと寝よう。
 ……みゃあ。
 短冊切りにした大量の青色人参を深皿に積み上げて、崩れないよう気をつけながら冷蔵庫の中に入れて扉を閉めたところで微かな鳴き声が聞こえた。外からだ。
「どうした」
 裏口の戸を静かに開いた。風に乗った霧雨がふわりと頬にかかる。気にせず足下に視線を落とした。
 毛布を敷き詰めるだけ詰め込んだプラスチックの白い箱の中に、一匹の獣が丸くなっていた。毛布の塊に埋もれるようにして鼻先だけを外に出している。上に広げたビニルシートの隙間から雨が降り込んで鼻が濡れて、また声がした。塊がもぞと動く。
「聞こえてたか」
 軒下に箱を移動させてから毛布を少し捲った。不機嫌そうに顔をしかめた老猫が小さなくしゃみをした。喉を撫でてやったらしかめ面のまま気持ち良さそうにごろごろ言った。器用な奴だ。
「お前のこと、心配だって。どうする、死ぬ前に一度会っとくか?」
 足と尾の先が白くて他は全部黒い猫は大儀そうに首を傾げて瞬きをした。それからふと笑ってこちらの指をざらりと舐めた。
「……そうか。いや、あんたがそう考えてるなら、俺は別にどうもしない」
 僅かに微笑みながら頭に手を置く。老衰し痩せこけた体はあの頃の面影など残してはいなかったが、時折見せる底意地悪そうな表情は健在だった。 幼い女の子から黒猫を引き取って、店長から飼う許可を得てほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、店外でなら飼っても良いという店長の条件に従って何度も言いつけたのにも関わらず猫はちょくちょく店内に入り込んでは客を喜ばせたり驚かしたりして楽しんでいた。その度にこちらが店長に痛い視線を向けられたのは言うまでもない。まあ怪我させたとかではないから放り出されることはなかった。
 その数か月後に城から通達が来て冬として迎えられて今に至る。猫は勝手について来ただけで連れてきたわけではない。だから厨房裏に当たり前のように黒猫が座っていたのを見た時はかなり驚いた。女の子が猫に会いに来たら会わせてやってくれと店の仲間に頼んでおいたのに、あんたがここにいたらあの子はあんたに会えないじゃないかと文句を言ったら今のようににやと笑われた。
 現在、黒猫はひどく足腰が弱ってしまって自力で歩くことができない。老衰は止められず、医者に診せてもどうにもならなかった。本人(猫)は澄ました顔で平気だと言い張る。実際に言葉が通じるわけではないから何となくだが、死ぬのを恐れてはいない感じだ。だからこちらもじたばたするのはやめて、今までと同じに過ごさせてやることにした。一応形の上では飼い猫ではあるが、黒猫は根っこの部分は野良の精神で生きてきた。自由に全てを終えさせてやれるのが一番だと思う。
「……みゃあ」
 不思議な光を湛えた目で見上げられて何だと尋ねた。開きっ放しの裏口から厨房を見て――正確にはカウンターで眠る少女を見て、黒猫がまた鳴く。
 その意味に気がついて苦笑いを浮かべ首を振った。
「城に来たらもう二度と会わないだろうと思ってた。今更名乗り出るのも変な話だろう。良いんだ、猫拾いの話の登場人物はスピリアとあんたと『名前の分からない少年』とだけで完結していれば」
 変な奴だなという目が真っ直ぐに見つめてくる。「放っとけ」さらりと流して毛布を元に戻した。くぐもった声で抗議するようにもう一度鳴いて、すぐに静かになる。また眠ったのだろう。
「おやすみ」
 一声掛けて厨房に戻る。カウンターの端の戸から食堂に移ってエプロンを外し、丁寧に畳んで棚の上に置いてカウンターに向き直って、
「さて……」
 いつの間にか雨は止み、切れた雲間から月の光が淡く差し込んでいた。そっと照らされる少女の無防備な寝顔に、料理長は小さく肩を竦めた。
 さて、どうやって彼女の部屋まで運ぼうか――。





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