■煙草■




 箱から一本取り出して口にくわえ、ライターで火をつけた。目を閉じて肺一杯に息を吸い込み、細く長く煙を吐き出す。
 自称「豪邸」の安アパートの一室。
 リビングダイニングと水周りと物置みたいな部屋が一つあるだけの簡素な造り。必要最低限のものしか置かない主義なので、室内はかなりすっきりしている。先日不意打ち訪問してきた友人に言わせると「殺風景」らしい。家の主人が気に入っていれば何でも良いじゃないか。
 胡座をかいた足の上で丸くなっている、唯一の同居者の頭を撫でつつ、もう一度煙を吸った。
「のどか、だねえ」
 ベランダへと続く大きな窓を開け放し、春の日差しをまともに受けながらフローリングの床に座っている。暖められた床は下手な床暖房よりも気持ちがいい。寒い季節が過ぎた今では床暖房など不要だし、そもそもこの家にはそんなものは存在しないが。かといって冷たい床が恋しい季節でもないので、やはり春の太陽には足を向けて寝られないなあと思う。
 同居者の喉を撫でてやったら、ばうばう鳴いて甘えてきた。
 こいつは自分がペットショップで買ってきたのではない。電柱の元でダンボールに入っていたところを拾ってやったのでもない。ただ、スーパーからの帰り道で引越し作業をしている家の前を通りかかったら、なぜだかわからないがその家の奥様に、 「お兄さん、お願いできますわよね都合で飼えないのよ次のおうち」などと一方的にまくし立てられて子犬を押し付けられて――現在に至るのだった。
 何がお願いできますわよねだとか思うのだが。一人暮らしの一大学生に頼むなと思うのだが。
 断りきれなかった自分も自分だ。大家さんが許してくれている間に早く新しい飼い主を 探してやらねば。
「お前も災難だったよなー。俺も災難だったんだけど。お互い災難だったんだからプラスマイナスゼロってことで」
「わん」
「あそこで断ってたらお前はどっかに捨てられるか売られるかしてたし、俺は俺で話し相手いないままだったし。まあ、飼い主見つかるまで頼むよ」
「わん」
「ところで犬君」どうにかしてこちらの頬を舐め回そうとする彼を避けつつ、真剣な表情で言った。
「俺ついさっき、ふられたんすけど」


 今日は講義が午前と午後に一コマずつだったので、大学敷地内の草むらで一人コンビニ弁当を平らげていた。
 満腹になると無性に眠りたくなり、青空を見上げながら一時その場で横になった。すぐ近くで感じた小声で話す人の気配。息を潜めて耳を澄ます。
 うとうとし始めた矢先のことだったが眠気はぱっと散ってしまい、声の主と話の内容を掴むことで頭が一杯になった。
 そこら辺の人間の会話なら別に気にもしなかっただろう。ただ、聞き覚えのある声がしたから。どんなに大騒ぎをしている中でだって聞き分けられる、自分にとって特別な人の声が聞こえたから。
 盗聴は悪いことだと思いながら、ついつい耳に全神経を集中させてしまった。止めとけばよかったと本気で後悔している。残念ながら後に悔しいから後悔なのだ
「ごめんなさい」
 女の子のすまなそうな声。直感で告白されたなと思った。
「あー、そっか。いや、別にいいんだ」
 男の方は残念そうに呟き、「なあ」と付け加えた。
「好きな人いるの?」
 付き合いを断ったのだから、それなりの理由があるのだろう。こちらもこちらで問いに対する返答が気になり、じりりと身を乗り出した。
「え、や、あの……」彼女は数秒躊躇った後で、はっきりと「はい」と言った。
「誰?」男がしつこく尋ねる。
「ヒントだけでも良いから」
 本当にしつこいな。出てって一発殴ってやろうかと思った。女の子をあまり困らせるな。気になるのは事実だが。マナーはわきまえねば。
 心底困り果てた様子の彼女は、ひとしきり悩んだ挙句にこう言った。
「この大学の人で、メガネの人。これ以上は言えない」
 ……聞くのと同時に、そっとその場から退散した。まあ、仕方ないか。
「ふむ」
 霞む弥生の空にため息を漏らす。俺なんか視界の端にだって入っていないだろうから。


 彼女に出会ったのはとある小さな喫茶店。本屋に行った帰りにぶらりと立ち寄ったらそこで働いていた。
 最初はなんとも思わなかったが、一番安いコーヒーを頼んで待っている間に彼女を目で追っていたら、気がつかないうちにそういう気持ちを持っていた。
 何が好きって、例えばはきはきした口調とか、例えばきびきびした働きっぷりだとか、
 ……例えば眩しい笑顔だとか。
 お金があれば何かと理由をつけてその喫茶店に通うになった。いつもと同じ窓際の席。いつもと同じ安いコーヒーを頼んで、いつもと同じように時間を掛けて飲んで帰る。
 仕事仲間との会話を聞いているうちに、彼女は自分と同じ大学で同じ学年だということがわかった。とはいえ、大学は広いからすれ違うことなんてあるはずもない。接点はこの喫茶店だけだった。



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