■煙草■




「どうよ、犬君」ばうと吠える度に、背後に置いてあるドッグフードの袋から一粒出して口の中に放り込んでやっている。
 太るかな。一瞬思ったが要求する方が悪いということで片付けた。
「彼女、俺の存在すらたぶん知らないだろうし。しかも俺メガネ君じゃないし。ってことは、好きな人が俺である可能性はゼロというかむしろマイナスだろー? イコール、ふられました」
「ばう」
「はいよ、ドッグフード」
 慰めてくれているのかただ食べたいだけなのか。とりあえず犬君は吠えて舐めてこちらを見上げてくる。
 ぎゅうと抱き締めてその肩口に顔をうずめた。獣特有のにおい。
 今は春の太陽のにおい。
 犬君が立ち上がった。不意のことに反応できず、硬い骨に鼻をぶつけた。
「なんだよ」鼻に手をやりながら頭を上げる。
 犬君は外に向かってしきりに尾を振っていた。
 この部屋はアパートの一階にあり、ベランダと道路とはやせ細った木々の仕切りで区切られている。その木々の隙間からこちらを見ている二つの目――。
「あ」「あ」
 相手と一緒に同じことを漏らす。
 不審者扱いの視線で見やると目の主はあたふたしながら弁明をはかった。
「あのっ、私、私だよ勇人(ゆうと)君」
「山寺……さん」
 噂をすれば何とかとはこのことか。
 先ほどまで犬君に愚痴っていた彼女その人が、なぜか自分の家の前にいてしかも自分に怪しまれている。
「何を、やってるの?」
「ちょ、ちょっと話したいことがあって、でも勇人君のメールアドレス知らないし電話番号も知らないしってそのくせになんで家知ってんだって話だよね。あの、たまたま見かけたから後つけてみただけなんだけどっていうかこれも変な話だよねっ。じゃなくてえっと」
 一人で混乱し始めた山寺さんを苦笑しながら家に招き入れる。放っておくのも面白いような気がするが、人の家の前で言い訳を並べ立てる彼女を近所の人がどう思うのかを考えると笑ってはいられない。
 大学生の一人暮らし。近所付き合いは結構大切だ。
「お邪魔します……」自分が慌てて出したスリッパを縮こまって履き、山寺さんはいそいそとリビングへ進んだ。
 犬君の存在に気がつくとあの笑顔をぱっと浮かべて抱きついていく。犬好きらしい。嫌いだったら犬君をどうしようとおもっていたが、杞憂に終わってよかった。
「どうぞ」
 自分はさっきと同じ位置に腰を下ろし、彼女にはすぐ隣に座布団を敷いて座ってもらう。
 二人して(犬君を入れると二人と一匹)太陽を浴びる。なかなか気持ちがいい。
「なんで名前知ってるの」
「え、あ、えと、そう、いつ、いつの間にか」若干頬を赤く染めて答えられた。
「へえ?」
 不思議なこともあるものだ。こちらのことなど何も知らないと思っていたのに、実は知っていただなんて奇襲もいいところ。
 ……何の用でうちに来たんだろう。
 疑問符を浮かべつつ新しい煙草を引き出して火をつけようとしたら、山寺さんはふと嫌そうな顔をして咳き込んだ。
「あ、ごめん。煙草嫌い? 嫌なら吸わないから言って」
「ううん、そんなことないよ」
 首がもげるんじゃないかというくらい激しく首を振って完全否定をした後、それでも苦笑いを引っ込めずに「煙草じゃなくて、ドッグフードのにおい。私こっちの方が駄目」
「あー、なるほど」
 上半身だけを捻って自分の背後にあった袋の口を閉め、
「ちょうど良かった。何か理由が欲しかったんだ」
「理由?」
「そ。片付ける理由。しまうの面倒臭くて犬君にあげっ放しだったけど、それだと犬君太るし」
 胡座をかいたままくるりと半回転して、袋を持って立ち上がろうと前のめりになる。
 と、何かが背中に乗っかったような感覚があった。そして、重い。
「え――」
 頭を動かし重みの正体を探る。犬君が乗ってきたのかと思ったのだが、犬君は舌を出してはっははっは言いながら微動だにしていなかった。
 ということは、
「やま、で、らさん?」
 どいて下さい。
 そう付け加える前に、彼女は自分の背中に顔を押し付けたまま絞り出すような声で言った。
「今日ね、同じ講義取ってる人に告られた」
「……へえ」知ってる。
「でもね、断ったの。その、好きな人いるから」
「そうなんだ」それも、知ってる。
「その後、近くの草ががさがさいって誰かが行っちゃうのが見えて」
「は」
 まさか。
「でねっ、その背格好が勇人君に似てて。なんか逃げるようにして行っちゃったから私慌てちゃって大急ぎで追いかけたんだけど追いつけなくて」
「あー」ばれてたらしい。
「ねえ、あれって勇人君だったんでしょう」
 立ち上がりかけた自分の前に山寺さんが回り込む。
 どうしてそんな顔をしているんだろう。ふと疑問に思った。どうしてそんな、
 そんな泣きそうな顔をしているんだろう。
「ごめん」気がついたら謝っていた。「聞いてました」
「それとさっき、わんちゃんに俺ふられたんだって言ってたでしょ」
「はい」いつからいたんだ、この人は。
 泣きそうな表情がくしゃりと崩れる。笑おうとして失敗した感じになる。
「私が好きな人、教えてあげようか」
 いたずらっぽい目つき。聞きたいけれど怖くて聞けない。
「別にいいよ。メガネ君でしょ。それだけわかれば十分だから」
「私がよくないよ。だから言う。あのね、私は」まっすぐでしっかりとした視線を、
こちらもきっちり真正面で受け止めた。
 引き腰だったけれど――。


「勇人君が好き」


 穏やかな春の日差し。
 隣には唯一の同居者の犬君と、先ほどから笑みを絶やさないでにこにこにこにこしている山寺さん……じゃなくて、裕香(名前で呼んでと迫られた)。
 裕香が好きなのはメガネ君だったはずなのに何でメガネ君じゃない自分なのかと聞いたら、
「あんな男にほんとのこと言うと思った?」
 悪戯っぽい目つきでそう言われてしまった。何。俺は無駄に嘆いていたということか。
 でもま、終わりよければすべて良しってコトで。
「どこか行く? 記念に」慣れない空気に多少ぎくしゃくしながら尋ねた。
「いい。ここでのんびりしてる方が楽しいし嬉しいから」彼女はくすくす笑って答えた。
 幸せな気分になって、霞んだ空を見上げため息をつく。
 それは大学でついたものとは別の、満ち足りたときに思わず漏れる明るい想い。
 肩に裕香の頭を感じながら煙草を一服。
 春風に揺れながら空気に溶けていく煙の向こうに、何か心地よいものの存在を感じた。




 
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