■描く夕日の色■




 仕事を終え、勇輔は家に向かって車を走らせていた。
 彼は美術館の警備員だ。前はそんなでもなかったのに、最近は家に帰るのがめっきり遅くなっている。そもそもの原因は、先日運び込まれてきた赤色の石だ。
 下から光を当てると乱反射してとても強く眩しい輝きを放つ。美術関係者が、この石は新種だの珍種だのと騒ぎ出したため、泥棒やら何やらが美術館にちょくちょくやって来るようになったのだ。
 勇輔ら警備員はもちろんのこと、警察も大勢駆り出されて毎晩のように美術館周辺の見回りにあたっている。
『今日こそは早く帰ってきてよね。仕事ばっかでこのごろアリサと遊んであげてないでしょ。大変なのはわかるけど、アリサの気持ちも考えてあげてよ。夕ご飯のときにあの子いつも、お父さんは? って聞くのよ。せめてあの子が寝る前に帰ってきてちょうだい。いいわね?』
 出掛けに聞いた妻の言葉が一日中頭から離れなかった。昨日もこれと似たようなことを言われ、努力はしたのだが結局家に着いたのは午後十一時半近く。
 今日も、嫌がられるのを承知で同僚に仕事を頼んできた。彼はお前も大変だなと言いながら快く引き受けてくれた。
 幸いなことに今日は飛び入りの仕事もなく、まだ日があるうちに帰路につくことができた。
 帰宅ラッシュの時間ではないためか、自分の前を行く軽自動車くらいしか走行中の車は見当たらない。
 眩しいくらいに輝く西日が、後部座席の窓から車内に射し込んできていた。
「……ん」
 まっすぐな道を淡々と走っていると、フロントガラスの左隅に小さな人影が見えた。 それは次第に大きくなっていき、一人の少女の姿だということがわかるようになった。
 彼女は文字が書かれた白い紙を車道に向けて、一生懸命に何かを叫んでいた。
 さらに近づいていくと、紙の下手くそな文字が読めた。
『のせてください!』
 どうやらヒッチハイクをしているらしい。しかし、勇輔より一歩先を走っていた軽自動車は、無情にも彼女を無視して走り去ってしまった。
「やれやれ」
 自分も無視して行っちまえ、と一瞬思った。だが、止まってくれる車を待っているのは、自分の娘と同じくらいの年頃……つまりは五つかそこらの少女である。
 ずきりと良心が痛んだ。
 窓ガラス越しに彼女の顔が見えた瞬間、勇輔はブレーキを踏んだ。車が少女の前を少し通り過ぎてしまってから止まった。
 走り寄ってくる少女と話をするため、助手席側の窓を開ける。
「おじさん、乗せてくれるの? ありがと!」
 彼女は開口一番元気よくそう言った。
「あんまり遠くへは連れて行けないけど、どこ行くつもり?」
 娘と話すような口調で勇輔が尋ねると、少女は西を指差しながら答えた。
「あっち」
 勇輔の進行方向とはまったく逆である。彼は心の中で頭を抱えた。
 困った。妻と娘の顔が頭に浮かぶ。もうそろそろ夕飯の時間だ。
 このまままっすぐ帰ればぎりぎりで間に合う。帰らなければ、間に合わない。……どうするべきか。
 短時間で考えをまとめた勇輔は、少女の目を見ながら言った。
「わかった。連れてってあげよう。乗って」
 急いで助手席のドアを開け、少女を乗せた。彼女がシートベルトをしっかり締めたことを確認した後、アクセルを踏みUターンをして走り出す。
 早くこの子を連れていって、すぐに帰ればきっと大丈夫だ。……きっと。


「おじさん、急いで急いで!」
 さっきから、隣の少女が声を上げている。急げと言われても、これ以上スピードを上げたら捕まってしまう。勇輔は彼女をなだめながら運転を続けていた。
「なんでまた君みたいな子がヒッチハイクなんてしてたの? 変な人にさらわれちゃうかもしれないだろ?」
 気になっていたことを聞いてみたら、少女は満面の笑みを浮かべてこう言った。
「おじさん、変な人なの?」
「え……違うけど」
「じゃあいいでしょ、そんなの」
「よくないよ」
 勇輔が苦笑しながら、
「だいたいどこでヒッチハイクなんて覚えたんだよ。ドラマかなんか?」
「うん。『君の瞳に乾杯』とかいうやつ。ママが毎日毎日ビデオ撮って見てたから」
 少女がしばらく唸った後で、ヒッチハイクをしていたわけを話し始めた。
「今日、パパの誕生日なの」
「誕生日?」
「うん。でね、プレゼントあげようと思ってあたし、絵描いたの。ほらこれ。夕日の絵なんだけど」
 信号が赤になったので、勇輔は少女のほうに顔を向けた。
 彼女はさっきから脇に抱えていたスケッチブックを開いていた。そこには、鉛筆で描かれた大きな丸が一つあった。色は塗られていない。
 感想のつけようがなかったのだが一応「うまいじゃん」と褒めてやった。すると、少女は夕日で照らされた顔をもっと赤くして、スケッチブックを閉じた。
「本物見ながら色塗ろうと思って。まだ塗ってないから変でしょ。……本当は、もっと早い時間から外に出て、夕日を待ち伏せしようって考えてた。でも、今日はピアノのお稽古があったからできなかったの。夕日が沈む前に広いところに行って塗り終わるには、自転車よりも速い車のほうがいいかなって思って」
「だからヒッチハイクしてたのか」
 勇輔が後のセリフを続けて言ってやると、彼女は無言でうなずいた。
「もう少し前の日か、もしくは明日に描くというのはなしなのかい?」
 ふと思ったことを口にしてみた。すると、激しく首を横に振られてしまった。
「駄目だよ! パパの誕生日の夕日じゃなきゃ駄目!」
「駄目、なんだ」
「うん……」
 子供にもいろいろ事情があるんだなあと思いながら、勇輔はハンドルを右に切った。
 緩い上り坂を一番上まで登ってから、今度は左のウインカーを出して曲がる。
 夕日に照らされた、海浜公園に着いた。




続き