■あの頃の記憶■ 3 真ん丸に近い月が足元を照らしてくれた。夜になっても熱いアスファルトが裸足の裏をじんわりと焼く。豪邸の庭を突っ切る時に見つけた細い木の枝をアスファルトにかりかりと引き摺りながら、静けさに包まれた夜の街を一人歩いて行く。 行くあてなんかない。とにかく今晩を過ごせる場所を見つけなくては。朝になったら住み込みで働ける場所を探しに行こう。でも、五歳の少年を雇ってくれる富豪なんかこの世に存在するのだろうか。 「……お腹空いたな」呟く声に応える者はない。 月を見上げて、今日最後の食事だった朝食のパンケーキを思い出して慌てて首を振った。その脇を痩せ細った野良犬が怪訝な顔で通り過ぎていく。 こんなところにも野良犬がいるのかと、正直面喰いながら彼(彼女かもしれない)を見送った。外観が損なわれるから、上流階級が住むこの居住区に、野良犬が口にできるような残飯の類は外に放置されないと思うのだが。 「あー、ちくしょ」 いい加減足も疲れてきて、サリタは街路樹の陰に座り込んだ。細い枝は心ばかりの武器だ。あの豪邸にいた時も、事あるごとにいじめてくる息子をいつかやっつけてやろうと、棒状のものを使って自己流に鍛練していた(そのいつかは来るはずもないとわかってはいたけれど)。夜の街に子供一人で放り出されて、変な輩に絡まれないとも限らない。 「……りょうしんが、じこで……」しんだ、って。 急に心細くなって、膝を抱えて顔を埋めた。どういうことだろう。本当に? 本当に死んだのか? 事故って、何の事故? 交通事故? それとも単に自分という食いぶちを減らしたいがための嘘? 何が真実? 何を信じれば良い? 何に縋れば良い――。 「こんばんは?」 突然、疑問形で夜の挨拶が降ってきた。硬直しつつも、左手で木の枝を探り当てて握り締め、目線だけを上げて声の主を確認した。 黒い髪を後ろで一つに括った、優面の男だった。年上には違いないが、そこまで離れているようには見えない。十代半ばかそこらだろうか。縁なしの眼鏡が近くの街灯を反射して光っている。背中には大きな黒いケースを背負っていて、たぶん形からしてバイオリンか何かだろうなと思った(幾らなんでもそれくらいは分かる)。白いワイシャツに校章のついた黒いネクタイをしている。どこかの学校の制服のようだった。こんな時間に学校帰りだろうか。そうなるとこの場所をうろついているということは、たぶん金持ちの息子。 思考がそこで停止した。カネモチノムスコ。嫌でもさっきまでいた家を思い出す。そして両親のことも。 「そんなに睨まないで下さい。怪しい者じゃないですよ」男は両手を開いて見せてにっと笑い、「家出少年さんですか?」 「逆」 短く答えて下唇を噛んだ。そうだ、追い出されたんだ。両親の事故の詳細も教えてもらえないまま。 「ぎゃく、ですか」 棒読みに繰り返して、男はふうむと腕を組んだ。何だか面倒な奴に捕まってしまったのかもしれない。変な輩に絡まれるのはごめんだが、面倒な奴に捕まるのも勘弁してほしい。 何やら考え込んでいる様子の男を放置し、立ち上がって木の陰を出た。再び木の枝でアスファルトをかりかり引っ掻きながら歩き出す。 |