■あの頃の記憶■




 慌てたような男の声が追い掛けてきた。
「ちょっと」
「構うな」思ったより硬い声で、自分でも驚いた。けれど、そのまま続ける。
「嫌いだ。あんたなんか。金持ちなんか大嫌いだ」
 とんでもなく身勝手なことを言っているのは分かっていた。この人は関係ない。金持ちが全員悪いわけがない。どちらかというとこの人は自分のことを心配して声を掛けてくれたんじゃないのか。でも今はその優しさが受け入れられない。
「何があったかは知りませんけれど」
 背中を向けてすたすたと歩くサリタに、男はすたすたとついてくる。
「この時間、この辺りは危険ですよ。ほら、今だって」
「――え」
 思わず振り向いた。目の前に男の腕があった。殴られる? 驚いて目を閉じた。
予想に反して腕はそのままサリタの体を抱えた(今日は何だかよく抱えられる日だ)。男はサリタを抱えたまま走り出す。背後から品のない笑い声を上げながら迫ってくる男が三人ほどいた。
「なんっ」
「金持ちが住むところに金を欲しがる輩がいるのは当然でしょう」
 事もなさげに男は笑う。
「基本的に自分の身は自分で守れなければいけないんですよ、金持ちは。まあ私は腕っ節が弱いので逃げるの専門ですが」
 バイオリンを背中に背負った上にサリタを抱えたままにも関わらず、男の足は速かった。あっという間に追っ手を撒いてしまった。それでいて全く呼吸は乱れていない。何者なんだ?
 追手の姿が見えなくなってからも男はしばらく走り続けた。やがて大きな黒い門の前で足を止める。周囲を見回してからあーと明るい声で呟いて、
「まあ、たまに逃げ切れないこともあるんですよね。仕方ないですよ、こればっかりは」
 サリタをゆっくりと下し、男がまたにっと笑った。
「逃げ切れない? だって、だってもうあいつら」
「ほら、来ましたよ」
 やけに楽しそうな口調で言いながらサリタを背後に押しやった。門と男に挟まれる形になり若干息が詰まる。抗議しようと顔を出したところで、煌く銀色の光に呼吸を忘れた。
 撒いたと思っていた男たちがそこにいた。全員が一斉にナイフを片手に、目の前の眼鏡の男に向かってくる。
 声も出ない。足も動かない。危ないって、逃げろって言いたいのに。男の服の裾を握り締めるので精一杯だった。
 自分がそんななのに、それでも彼は余裕綽々に微笑んでいて、
「こういう時はですね、さすがに専門家に頼むんですよ」
 ナイフの切っ先が胸に触れる寸前、一つ手を叩いた。
 それからの展開は早かった。
 四、五人の黒が背後の門を飛び越えた。そのうち一人が眼鏡の男と襲撃者二人の間に割って入る。ナイフを持つ腕を逆さに捩り上げて組み伏せた。他の二人の襲撃者も同様に。ばったばったと薙ぎ倒されてあっと言う間もなく静寂が戻った。
 彼に呼ばれた(のだろう)黒が手際良く襲撃者たちをロープで雁字搦めにして口をガムテープのようなもので塞いだ。
「はい、お疲れ様でした」
 実に楽しそうに微笑んで彼が言うと黒たちはきびきびと一礼をした。襲撃者たちを立たせてど突きながらどこかに連れていった。
「あ……」
 忘れていた呼吸をようやく取り戻す。いつの間にかアスファルトにへたりこんでいた自分に気がついた。
「大丈夫ですか」
 してやったり顔で男が手を差し延べてくれる。表情が気に食わないがありがたく借りて立ち上がった。
「我が家へようこそ」
 背後の巨大な鉄の門がゆっくりと開き始めた。

 


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