■あの頃の記憶■ 5 見たこともない世界が目の前に広がっていた。眩しいくらいの明かりが部屋中を隅から隅まで照らす。床には柔らかな絨毯が敷き詰められていて、小石やガラス片で傷だらけになった素足にも気持ちが良い。たぶん高価なのだろう壺やら絵画やらが一定の間隔を置いて廊下に飾られている。下手すると今まで過ごしてきた豪邸よりも豪邸なのではなかろうか。どれだけの金持ちなんだと、前を歩く男の背中を半ば呆れた目で見上げた。 「まずはお風呂、それから足の裏の傷の手当てを。服はレトロので事足りるでしょう」 男が三人の使用人を引き止めてきびきびと指示を与えていく。それを待つ間、レトロって何だろう古着のことかなとか風呂入ったら足の傷痛むかなとかいうことで頭を埋めた。 「お腹も空いているでしょうから簡単な夜食を作ってあげてください。それは私の部屋に。食べながらいろいろお話することにします」 使用人の一人が冗談めかしてじゃあドンモノがよろしいでしょうかねと言って、男はそれは良いアイディアですねと面白そうに頷いた。 中年の女の使用人に手を引かれた。話の内容からしてたぶん風呂場に連れて行かれるのだ。 それにしてもドンモノって何だ。……高級魚の名前だろうか。 自分で洗えるからという頼みはまあまあの一言で片付けられ、頭の先から足の先まで余すところなく泡だらけにされた。皮が二、三枚剥れたような感覚だ(前の豪邸では風呂になんか主人の機嫌がすこぶる良い時にしか入れてもらえなかった)。だいぶさっぱりして気分も落ち着いた。 風呂から出ると待ち構えていた別の使用人(こっちはかなり若い男だった)にバスタオルでぐしゃぐしゃ拭かれて白黒ボーダーのシャツと濃い色のジーパンを着せられた。足の傷には消毒の後に軟膏が塗られて丁寧に包帯を巻かれた。大した傷ではないのだが細かいのがたくさん刻まれていて絆創膏よりも包帯の方が都合が良かった。 最後に妙な蓋付の器に盛られた料理を盆に載せ、年寄りの使用人が一つの部屋に連れて行ってくれた。使用人のノックに扉が中から開かれる。金色のドアノブ(本物の金かどうかは分かるわけもなく)に気を取られていたら背中を押された。 「思ったより長く掛かりましたね」 男が笑顔で迎えてくれた。黒いシャツに着替えてある。先程までの服はハンガーで壁に吊されていた。 「適当に座ってください。丼はそこの机にお願いします」 言われた通りに器を置き、使用人は深い一礼の後静かに出ていった。自分は自分で適当にという言葉を素直に受けてその辺に座り込んだ。 柔らかい絨毯の心地良さにはまってしまって、つい素手で撫でて毛羽立てたり直したりと無意識に遊んでしまう。 振り返った男が一瞬きょとんとした顔になり、そうかと思うと物凄い勢いで後ろを向いて小さく肩を震わせた。声を殺して爆笑しているらしい。器用な人だ。 「……椅子に座れば良いのに面白い人ですね」 「あー」なるほど。 まあ良いですよ。頷いた男が丼とか言う器を盆ごと絨毯の上に下ろして、自らも自分に合わせてその場に座った。 胡座をかいて互いに向かい合う。一つに括られた長い黒髪。縁なしの薄い眼鏡の奥からこちらを見つめる柔和そうな、しかし知的さとしたたかさを同時に覗かせる黒い瞳。 「さ、どうぞ。熱いですから気をつけて」 器の蓋が取られ、白い湯気と食欲をそそる匂いがふわりと立ち上ぼった。適量盛られた白米の上に肉と溶き卵をごちゃ混ぜたものが乗っている。 初めて見た。何だこれ。 「親子丼、御存じないですか」 黙り込んだまま見つめていると不思議そうな声が頭の上から降ってきた。目線を変えずに頷くと、じゃあこれにしてもらって正解でしたねと言いながら銀色(もしや本物の銀か)のスプーンを寄越してくる。 「鶏肉と卵をご飯に乗せた丼です。事情聴取の際によく出される、と聞きますが真相や如何に、ですねぇ」 「ふうん」 意味不明な単語熟語は放ったらかしにして、とりあえずスプーンで白米ごと肉と卵を掬い取って口に運んだ。思ったより熱くてはふはふしたが、「……おいし」これはなかなかいける。 「それは良かった。では気に入って頂けたところで事情聴取と参りましょう」 素直な感想に一層顔を綻ばせられる。ジジョウチョウシュって何だと聞いたら親子丼食べながら質問に答えていく正義の味方と捕獲された獲物との言葉遊びだと言われた。「じゃあ俺が獲物であんたが正義の味方?」 「あはは、まあその辺はどうでも良いんですけど。ああ、自己紹介が遅れて申し訳ありませんでした。私、フォールフィル・オーダインと申します」 浅い一礼にこちらも思わず頭を下げた。 「ふー……お?」 「言いにくいようでしたらフィルでよろしいですよ」 「ふ……いる? ……ふぃ……る」 「そうそう」 よく出来ましたと拍手されて照れ隠しに親子丼を掻き込んだ。少し噎せた。胸を叩いてどうにか堪えて、それでもまだ軽く咳き込みながら、「サリスメイト・リンガート」自分も名を名乗る。 「だいたいサリタってみんな呼ぶ」 「では私もサリタと呼ばせていただきますね。ところでサリタ、あなた、家出の逆って言ってましたけどそれは――」 フィルが途中で言葉を切りじっとドアを見つめた。何だろうと思いながらもう一口鶏肉を頬張る。と、 「フィル兄ぃっ」 |