■稽古■




 今が一番鍛錬しやすい時期だ。"夏"の属性を持つサリタは、冬が近づいてくると病気になったり怪我をしたりする確率が気持ち悪いほど上がる。それに加えて冬眠でもしているのかというくらいよく寝るために、蹴っても叩いても冷水を浴びせかけてもベッドから派手に落としても稽古をやってくれないことが多い。反対に、茹だるような暑さの時は飛んだり跳ねたりお前は一体いくつなんだと耳元で叫んでやりたいくらい元気なので、好きなだけ相手をしてもらえる(下手に調子に乗らせるとこちらの身がもたないほど)。はっきり言って獣と同じサイクルで生活しているようなものだ。
 やたら神経が普通とずれていて、しかしやる時はきちんとやってくれるという、実に頼りがいのある間抜けな獣だ。
 一戦やったら一休みするという暗黙の了解があるので(ゼシルの体力を慮ってのこと)、ゼシルは再び木陰に逃げ込んだ。根元に転がしておいたペットボトルを取って水を飲む。だいぶ温くなっていたがぎりぎり許容範囲内だった。サリタはシャワーでも浴びるかのように空を仰いで伸びをし、それから剣を鞘から抜いて刃の部分を布で拭き始めた。暇な時にいつもやる癖だ。
 サリタの剣は特注で、それなりの金額が注ぎ込まれている。さらに振った感じや切れ味の良し悪しで改良を加えるので、国の財政の五パーセントは彼の小遣いもとい剣の代金として消えていると言っても過言ではない。他に、宮廷楽師のフィルも楽器の音や質感にうるさいため支出が激しい。スピリアは年相応の小遣いで満足してくれているから無害だ。ゼシル自身は基本的に物欲がないので問題なし。一番の曲者はウィグナーで、彼は食費と称して世界の珍味を集めては創作料理に勤しんでいるため、一人前に小遣いをもらいつつ趣味は他人の財布で済ませるという素晴らしい技を持っている。財政担当者に「王から何とか料理長に言ってやって下さいよ」と泣きつかれたことも何度かあった。だが、彼は彼なりに節約しているようだし(曰く「余分な食材は買ってない」)、何よりウィグナーの作る料理は絶品だから、むやみに刺激して機嫌を損ねたくないのだ。
「ゼシル様」
 それにしてもまあ水分も取らずにあんな日なたにずっと座り込んでいて脱水症状だの日射病だのにならないなあいつはと無駄に感心していたところに声をかけられ、不意打ち同然で数秒固まってから返事をした。
 サリタはそのタイムラグを気にするでもなく剣を磨き続ける。
「明日からマラソン始めましょうか」
「はあっ?」
 突然の提案に思い切り否定の意を込めて問い返した。いきなり明日からというのはどう なんだ。
「心の準備などなどの支度がまだだから無理」
「じゃあそれが終われば良いですね」
「永遠に終わらないけどね」
 そっぽを向いてやるとサリタは不満そうな声でそんなあとか言って顔を上げた。
「体力は大事ですよー。どんなに強くてもバテたら負けですからね」
「バテる前に勝っちゃえば良いんだよ」
「ゼシル様、それは屁理屈というやつです」
 それから延々と"体力の必要性"という議題でサリタが講演会をやっていたのだが、唯一の聴者であるゼシルは右から左へ流していた。とにかく暑い。


 ゼシルは強いとサリタは言う。しかし、本当はゼシルなんかが太刀打ちできるような人ではないのだ。勝利の回数こそゼシルの方が多いが、それはサリタが絶妙な力加減で勝たせてくれているからだ。ゼシルは結果が良いと次も頑張るが悪いとやる気が失せるタチだから。
 一度だけサリタが本気で戦っているのを見たことがある。
 数年前、敷地内に忍び込んだよく分からない国のよく分からない賊がゼシルの部屋の窓を割り、貴金属の類(ゼシルがそんなものを持っているわけがない。これはスピリアの忘れ物だ)を盗もうとした。
 その時ゼシルはちょうど食堂から戻ってきたところで、部屋に入ろうとしたら付き添いのサリタが真っ先に異変に気づきドアを蹴り開けて剣を抜いた。
 突然すぎて稽古の成果は全く発揮できず、ゼシルはただドア口に突っ立って成り行きを見ているしかなかった。いや、ゼシルが下手に加勢していたらむしろ邪魔になっていただろう。
 一対一なら難なく倒せただろうが、サーベル片手に五人がかりでサリタ一人に襲い掛ってきて、しかもなかなか強いやつらだったので悪戦苦闘していた。それでも相手を殺さず気絶させるに留めて最後の一人と向かい合う。額の裂傷からの血を手の甲で乱雑に拭い、一瞬だけ肩越しにゼシルを見て小さく微笑んだ。
 事態を知り慌てた兵士たちがようやく駆けつけた時には敵のリーダー格の男も倒し、全てが終わっていた。やっとゼシルが我に返って少しふらつきながらサリタに歩み寄ると、彼はいつもより多少疲れた様子でへにゃと笑い、血に濡れた剣にもたれながらその場にしゃがみ込んだ。
 膝をついて、返り血で赤く染まったその頬に手を伸ばす。
「大丈夫でしたか、ゼシル様」
「……大丈夫じゃないのはサリタの方だろがっ」
 不覚にも目頭が熱くなってしまい、悟られないうちにぱっと離れた。
 やっぱり、自分のために人が傷つくのは嫌だ……。
 泣くのを必死で堪えるゼシルの背中に向かって、サリタが頭を下げる気配がした。
「部屋、血で汚しちゃってすいませんでした」
 こいつは間違いなく頼りがいのある間抜けな獣だと確信したのはこの時だった。



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