■見合い話W■


15


 湖の水面に口をつけるリデニサの首筋に触れる。彼女は小さく鼻を鳴らし耳をぱたと動かしたが、少なくとも嫌がっている様には見えなかったのでそのまま撫で続けた。
「……」黒馬が静かに隣に寄ってきた。
「なんだっけ、ロズスノ?」
「ノスズロです」
 草の上に座って空を眺めていたナフトがこちらを見て苦笑した。
「ノスか、そっか。君も飲む?」
 頷いて彼の首筋も引っ掻いてやったら、気持ち良さそうに目を細め、ゼシルに頬擦りをしてからリデニサの真横の水面に首を下ろした。
「……っ」
 あからさまに不機嫌になったリデニサが頭を上げて外方を向いた。ノスズロはマイペースに水を飲み続け、時折彼女の顔を上目遣いに仰いでは楽しそうに尾を振る。
 どことなく飼い主に似ている。面白いコンビだなと思いながらその飼い主を見た。
「さてと、そろそろ行こうかナフト」
 不機嫌なままのリデニサを宥めに宥めて背に乗り、手綱を引いて相手に早口でやろうと思っていた事を伝えた。
「ここから城まで競走しよう。道は来た道そのままだから分かるから」
 ナフトはきょとんとした顔でノスズロの手綱を握った。しかしすぐに楽しそうに微笑んではいと言い、
「城前で止まれなかったらまたぐるり一周してしまうかもしれませんが、まあ許してくださいね」
「えー、ちゃんと止まらない駄目だよ、負け」
「じゃあその辺りはノスズロに頑張ってもらわないと。よろしく」
 たてがみを撫で付ける。黒馬は小さく嘶く。白馬がそれを見てフライングしようとしたので慌てて手綱を引いた。歯痒そうに足を踏み鳴らすリデニサの耳元でやりたいようにしていいからもう少し待ってと囁いた。
「それじゃあ行くよ。よーい、スタート!」
 号令と共に乗り手の意思を完璧に無視した見事な走り出しでリデニサはノスズロの先を行った。
 たぶんきちんとした躾なり何なりを身に染み込ませているのだろうノスズロは、ナフトの掛け声や手綱の引き具合に合わせて風の様に駆ける。リデニサも一通りのことは叩き込まれているはずなのだが、彼女の場合は自己流で、作法云々よりも如何に速く走るかということに重点が置かれていた。見る者によっては単なる暴れ馬にしか見えないかもしれない。しかし、ゼシルとしては自由奔放な感じがして好きだった。
「速いですね、ゼシル王」
 背後にぴたりとついて来る。声を掛けられて顔半分をそちらに向けて笑った。
「自分じゃないよ。リデニサの本領発揮ってところかな」
「なるほど。ではこちらもそろそろ本気出しますか。な、ノスズロ」
 高い嘶き。それと同時に黒馬の尾がリデニサの鼻先を掠めた。
 一つ瞬きをしてからにやりと笑んで「やるじゃん」呟いた。やたらリデニサが突っ走ろうと首を伸ばすせいで手綱が強く張り、彼女は苛立たしげに鼻を鳴らした。
「焦るなって」
 手綱を緩めてやりつつ片手で首筋を叩いた。
「今からだから」ノスズロが二頭分ほど前に出たところで手綱から手を放した。
 抵抗から解放されてリデニサが一気にスピードを上げる。振り落とされないよう風に靡く白いたてがみにしがみついた。できる限り姿勢を低く、顔は前方を見据える。
 輪郭を半ば失った木々が背後に流れていく。認識しようと目で追った途端に頭がくらくらした。全てを背景として無視し、一心不乱に走るリデニサの揺れに身を任せる。顔にぶつかる風が気持ち良い。この爽快感が堪らない。やはり乗馬は爆走に限る。
 広葉樹の並木道を豪快に突っ走っていく二頭の馬が、離れた場所で様子を見ていたらしい近衛たち(それと野次馬の二人)にどんどん近付く。その速さは尋常ではなく危うくはね飛ばしてしまうくらいの勢いで通過した。スピリアと思われる悲鳴が微かに聞こえたが(落ちるとか何とか)すぐに空気を裂く音に呑まれて掻き消えた。
「やぁ、やりますね」
「そっちこそ」
 ついにリデニサとノスズロが再び並んだ。両馬ともに文句なしの走りっぷり。違うのはノスズロが貴族らしい上品さを持ち合わせての走りに対して、リデニサはどこか野生の匂いがまだ残る。それでいいのだ。人間生活に役立ってくれるよう訓練する必要があるとはいえ、生き物を叩いて彼らの自我を潰すような訓練士は即刻首にしてやる。
 リデニサを自分の馬にしてもらえるよう本格的にサリタに頼んでみようかなと頭の片隅で考えつつなおも馬の背の上でゴールを目指す。ナフトも本気モードに移ってきたのか、掛け声に熱が帯びた。真剣勝負。勝って負けて何があるというわけではないが、純粋に勝負を楽しめる感覚がそこにはあった。
 蹄が地面にぶつかる鈍く重く、しかし軽やかな音を轟かせて、二頭の馬はほぼ同時に城前に滑り込んだ。


「なんだか良い感じでしたね、王様」
「何が」
「それはもちろんナフト様と」
「はあ?」
 夕方、ナフトたちを送り出してからフィルと城のベランダで外を眺めていた。久しぶりの夕日はとてつもなく綺麗で、お見合いが終わったという安堵感も相俟ってかとてつもなく気分が良かった。
 三階に相当する位置にあるベランダの下では、ホースを引っ張ってきたサリタがリデニサの体をわっしわっしと洗っている。今日一日頑張ってくれたお礼にとウィグナーから山盛りの人参をもらってきて彼女の目の前に積み上げてやったらあっという間に平らげてさらによこせと目で要求してきた。一応ウィグナーに言ってみたが晩飯のがなくなるだのなんだのと珍しくしかめ面してくれたのでおとなしく引き下がった。少し機嫌の悪くなった皺寄せがサリタにいって、彼はいろいろ苦労しながらブラシを動かしている。ここからは見えないけれど、たぶんさり気なく足を踏まれたり鼻先で押されたりしている。
 まあ頑張れ。
「明日にはお見合いの結果報告ですけど、もう決めましたか」
 三日間の疲れが一気にきたらしく、ひどく瞼が重い。手摺に寄り掛かったままうつらうつらして不明瞭な返事をする。
「決めるも何も……まあいいや。……部屋戻って……寝る」
 夕飯できたら起こして。そう伝言を残し、ふらふらと踵を返した。背後でフィルが頭を下げる気配がした。
「お疲れ様でした」


「一番良かったじゃないのナフト様。もうナフト様に決まったも同然よ」
「まだわかんないわ。総合して考えたら……」
「やっぱりナフト様じゃないの」
「今ごろゼシル様、ナフト様の夢をご覧になっているんじゃなくて?」
「ロマンチックね。結婚式いつかしら」
「きっと結婚式にはサリタ様も素敵な近衛兵の正装を着こなして出られるのよね」
「ちょっと着崩してたら私死んじゃうわ。かっこよすぎ!」
「いやん、サリタ様が馬の世話なんかを!」
「何よ雌馬! 何サリタ様蹴っ飛ばしてんのよ」
「きゃあぁん睨まれたぁっ!」
「助けてサリタ様ーぁ!」




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