■音楽の夜■




「結構良いよ、これ」
 話題を変えて楽譜を指した。曲は三部構成で、使用楽器は彼お得意のバイオリンだ。ゼシルはバイオリンのことはよくわからないが(習った記憶はあってもちゃんとした音の出し方は忘れている)、聞くのは好きだった。特にフィルが弾くバイオリン。伸びのあるその音がフィルの手によってさらに美しい波紋を織り成しながら大気に響く。さすがは宮廷楽師といったところか。
「なんかね、第二部の真ん中ら辺が好き。いきなりテンポアップするでしょ。その辺」
「あぁ、なるほど。そこは昨晩直したところですね。少し変化を入れたいと思って」
 そう言いながら黒いケースに手を伸ばす。金具を外して蓋を開けると光沢のある茶の色が見えた。慣れた手つきで取り出して構え、弓を弦にそっとあてがう。
 一つの音が微かに震えた。長いその音はやがて曲となって走り出す。ゼシルが好きだと言った部分の少し前。落ち着いたさざ波のような揺れが優しく空気を包み込み、それから一気に加速した。鮮やかな赤や黄にその身を染めた幾万もの葉が、巻き起こる風の手を取って天を舞う。
 曲のタイトルは「紅葉日」といった。第一部で淡々と、しかし大胆に色を変える山々の姿を描き出す。第二部では冬を前にした紅葉と風のダンス。最後の第三部は冷たく凍る大地に降り積もった紅葉が永い眠りにつく様子を清らかに奏で上げる。
 とてもバイオリン一つで表現しているとは思えないような曲だった。フィルが作るのはいつもそうだ。バイオリンだろうがピアノだろうが、一つの楽器では無理だと思うような曲を一人で書いた上に一人で完成させてしまう。頼まれてゼシルが楽譜を見ることもあるが、それもごくたまにのことだ。
「やっぱ良いよ」第二部を弾き終えて軽く頭を下げてみせる彼に、ゼシルはぱちぱちと手を叩いた。
「さすがだね。伊達に年食ってないというか音楽学校首席で卒業してないというか」
「誉めて頂くのは本番だけで結構ですよ」
 柔らかく微笑んでもう一度会釈した後、バイオリンをケースにしまった。蓋は閉めるが金具は掛けない。ゼシルが自室に帰ってから整備したり何だりするのだろう。
「……今夜は嵐でしょうかね」
 不意にフィルが耳を澄ませて呟いた。つられてゼシルも窓の方を向く。ベージュ色のカーテンに遮られた窓の向こうで、風が騒いでいた。先程よりも少し強く。
「嵐かもね。気象予報のおばさん何も言ってなかったけど」
「そうですか。ま、飽くまで予報ですからね、あまり当てにしてはいけません。なんて言ったらひどく叱られてしまいますでしょうが」
 肩をすくめて面白そうに笑う。ゼシルもあははと乾いた笑みを浮かべながら同意した。
 あのおばさんは怒らせると本当に怖いのだ。一度だけだが、ゼシルは彼女の本気の怒りを真っ向からぶつけられたことがある。まだ両親が城にいた頃の話だ、楽しみにしていた外出が突然の雨で中止になった。寝る前までは、「絶対晴れます雲一つない完璧な青空が広がって絶好の買い物日和となるでしょう」とか言われていただけにショックは大きかった。どこが完璧な青空なんだと泣きながらおばさんに詰め寄ったゼシルだったが、
「めそめそ泣くんじゃありませんよ全く第一雨になったのは私のせいじゃなくてゼシル様の日頃の行いが悪いからでございましょう。私の予報は間違いなく晴れ! 晴れだったのでございますよ!」
 轟く雷を背景に鬼のような形相でそんな理不尽なことを怒鳴られたら、さすがのゼシルも恐怖に屈するしかなかった。
 あれから数年が経ち、ゼシルは王になって、彼女は"おばさん"と"おばあさん"の中間くらいの見た目になった。完全なトラウマなので未だに怖い。
「普段は良い方なのですけどね。おいしい紅茶が手に入ったと言ってはお茶会に呼んで下さいますし、綺麗な花が手に入ったと言っては花瓶付きで分けて下さいますし」
 フィルが指差す先には、透明な青のガラスの花瓶に入った白いユリが静かに佇んでいた。
 新事実発覚にしばし無言で花を見つめた。あれはフィルが自分で買ってきたのだと思っていたのだ。
「私には花を自分で買うなんていう金銭的余裕はありませんよ」
 思ったことを言ったら苦笑して弁解された。確かに。あれだけ凝った楽器やら楽譜やらレコードやらを買い漁れば当然だ。
 部屋を見回すと色とりどりの花瓶に生けられた花がそこかしこに見られた。全部彼女からの贈り物か。
「フィルだけだよ、そんな待遇良いの。自分には花もお茶もくれたことない」
「直接手渡す機会がないからでは? 朝の会議の時くらいしか会う時ないでしょう。たまに使用人の方々に何か渡してますよ、王様にって」
「へぇ……」
 新事実発覚再び。いつの間にか部屋に飾られている花は彼女からの物だったのか。知らなかった。
 会う機会が絶対的に少ないのは仕方がないが、ゼシルが極力彼女を避けていたのもあった。なんたってトラウマなのだ。また雷を背負って牙を剥かれたらどうしようかと思ってしまう。だが、裏でおばさんがそんなことをしてくれているとなると話は別だ。ありがたく受け取っている以上、少しはこちらも態度を改めねばなるまい。トラウマ克服。……できるものならば、だが。



続き
戻る