■音楽の夜■ 3 話が途切れ、ゼシルはまた楽譜に目を走らせた。フィルはフィルで部屋の奥に設置されているグランドピアノで静かなセレナーデを奏でている。それは心地よいBGMとなって聴覚を満たしていく。 不意に声がした。ピアノの音に混じる幼子の微かな声。フィルが顔を上げ声がした方を振り返った。 隣の部屋につながる木製のドアが僅かに開かれて、ぱっちりとした二つの橙の目が覗いていた。 「――パパ」 「どうしました」 「目、覚めちゃったぁ。お外うるしゃいんだもん」 フィルが苦笑しながら手招きすると、ドアが完全に開いて幼い女の子がよたたと出てきた。 フィルの子供のカペラだ。肩口までの黒髪が柔らかに揺れて、フィル似だなぁとつくづく思う。でも少しお転婆な感じのする無邪気な顔立ちはどことなく母親のそれに似ていた。 カペラの母親はこの城で考古学者として、国の歴史を研究している。彼女は基本的に仕事が忙しいので、カペラは専ら父親と、もしくはゼシル達や使用人と過ごしていた。母親が休みの時は家族水入らずで街に出掛けたりもしているらしい。 カペラは城で生まれて城で育ち、城の者達を家族としてきた。現在二歳と半年ちょっと。悪戯好きなのはたぶんスピリアの影響だと思う。 「こんばんは、カペラ」 「あ、ジェシル来てたんだぁ」 ぴょこんと跳ねて、楽しそうに駆け寄ってきた。頭を撫でてやるときゃっきゃ笑って膝によじ登ろうとする。 彼女はゼシルやサリタのことを"ジェシル"や"シャリタ"と言う。名前を教えた使用人が幼子に対する言葉遣いで話したらしい。スピリアの名前も当然訛るのかと思っていたのだがスピリアのことだけはなぜかちゃんと"スッピー"と言えるのだった。スピリアが繰り返し教えたのだろうか、二人は仲が良い。 「なぁに? ジェシル何やってるのぉ?」 軽く抱き上げて膝の上に座らせる。その間にも、少女は身を乗り出して机上の楽譜に興味津々だ。順番を勝手にいじられると後が大変なので、慌てて束にして持ち上げた。カペラも見るぅ! 取っちゃいやーぁとか言いながら手を伸ばしてくる。防戦一方。カペラが立たない以上逃げるわけにもいかない。 「フィルー……」 助けを求めて彼を見やる。同時にカペラも「パパぁ」とフィルを呼んだ。 「ジェシルが見しぇてくれなぁい。じゅるいの」 「ずるくないない。カペラが悪い。自分は今お仕事中」 「ジェシル、うしょついたらダメよぉ」 「嘘じゃないしっ」 楽譜の束でぺこんと頭を小突いたら、びぇびぇ泣くふりをして父親に抱き付いていった。フィルはもう笑いを堪えるのに精一杯といった感じで、目元には涙なんかを浮かべている。 「王様、私の可愛い一人娘に何てことするんですか」 「愛娘といじめっ子のやり取り見て笑い泣きしながら言うセリフじゃないね」 「はは、確かに」 いつまでもフィルが笑っているのでカペラまで笑い始めた。本人は何がどうおかしいのかわかっていないに違いないが、父親が楽しければ娘も楽しいのだろう。 ――少しだけ羨ましく思った。 |